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所長マイクのブログ,2019年ブログ2019/09/20
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減薬・断薬の方法 29 「実体は何か?」
「全てはひとつ」の観点を掘り下げましょう。
目の前にボールペンがあるとします。
どう見てもボールペンです。
たぶん隣の人も「ボールペン」に見えるでしょう。
当たり前のようですが、「視力、水分、光源、空気、理解力など」が同じ環境がゆえに、同じボールペンに見えるということです。
同じ環境のもとだから、同じように見える。
もし、あなたが1億倍の視力を持っていたとしたらどうでしょうか?
分子、原子、素粒子レベルで見える視力があったとしたら。
同じボールペンの形には見えないかもしれません。
では、その分子、原子、素粒子レベルで見えるボールペンは、ボールペンではないのでしょうか?
やはりボールペンです。
「この形がボールペンです」と断言しても、私たちが認識する条件や状況によっては違うように見えたりします。
仏教用語の「縁起」でいわれる「ある条件のもとで、そのように認識される」ということです。
条件が変われば、違うように認識されるということで、これが認識レベルでは、その実体をむことができない証拠となります。
物事の捉え方、見方、感じ方などは、そのときの条件や状況によってそのように感じるだけであって、そのもの自体を捉えているわけではないのです。
さらには、ボールペン自体も、認識されるまではその形という固定的なものはありません。
現代量子力学で言われる「意識したものが現象化される」ということを意味します。
現象というのは誰かがその物体を認識したレベルでの現実に過ぎないのです。
つまりボールペン自体も無限であり、認識も無限ということになります。
例えば、「あの人はこういう性格だ」「この出来事はこういうことだ」「自分はこういう人間だ」という認識も固定的ではないのです。
「あの人はこういう性格だ」という「あの人」を認識する自分の捉え方も無限であり、当然「あの人」自体も無限です。
つまり、「あの人」もいなければ、「こういう性格」もないのです。
あくまで、自分が認識した「あの人」であり「こういう性格」なのです。
この認識のもとになっているのが、自分の「過去の記憶」です。
これまで「出来事」と「感じ方」のセットが、記憶として認識され、変えることができるのは「感じ方」だとお伝えしてきました。
しかし、さらに深く捉えていくと「出来事」さえも、一定の条件や状況での認識に過ぎないことがわかります。
つまり、「過去の記憶」は、その全てにおいて実体の無いものだと言うことになるのです。
このことを佐藤先生は、「もともと白紙のキャンパスに、自分で描いた模様だから、白紙に戻して別の模様を描くことができる」と言われます。
これがすなわち、「過去の記憶を変える」ということなのです。
ではまた明日。
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